
鉛色の空の下で
沖縄の空は、珍しく重い雲に覆われていた。
リビングの窓から見える海も、同じように沈んだ色をしている。
それは、まるで私の心模様を映し出しているようだった。
「ママ、またこんな時間から飲んでるの?」
背後から、冷たい声が降ってきた。
中学に入学したばかりの長女、美咲。
反抗期の彼女にとって、私の存在そのものが気に障るらしい。
夕方17時半、
仕事終わりに帰宅してすぐに飲むビール。それが唯一の癒しの時間だというのに。
缶ビールを 背中に隠し、小さく息を吐いた。
「ちょっとだけ。疲れたの」
「ふーん。どうせまた仕事でうまくいかなかったんでしょ」
その通りだった。
株式会社Sports Agent沖縄本社。
テレマーケティングの仕事。目標の数字には遠く及ばない。
受話器の向こうの 冷たい声が、私の自信を少しずつ奪っていく。
「別に、美咲の心配することじゃないわ」
そうは言ってみたものの、胸の奥は鉛のように重い。
–
遠い夫、近くの子どもたち
単身赴任中の夫、航平が福岡に行ってから、もう三年になる。
月に一度会えるかどうか。頼れる人は近くにいない。
三人の子どもたちを一人で育てていくのは、平気なふりをしていても、かなりのプレッシャーだ。
ゲームに夢中の長男、陸。
甘えん坊の次男、海斗。
「ママ、これ見て!」と 学校で借りてきた図鑑を見せてくるけれど、上の空で
「うん、うん」と答えるのが精一杯。
可愛いけれど、三人分の世話は想像以上に骨が折れる。
美咲との間には、いつも 重い空気が漂っている。
思春期の彼女の イライラと、私の疲労困憊がぶつかり合う。
「うるさい!」「もう、ほっといて!」
思春期の彼女の棘のある言葉。
「誰に向かって言ってるの!」
今日もまた交わされる言葉の刃。
「お母さん、宿題見てー」
海斗の声で、缶ビールを置きリビングのテーブルへ。
子どもたちの宿題を見守りながらも、頭の中では仕事のことが渦巻いていた。何度も見返したトークスクリプトは、もはやただの文字の羅列にしか見えない。
(どうすれば、あの数字に届くんだろう…トークしてもまた冷たく返されるのかと思うと…)
–
一筋の光
日々の家事と仕事からくるストレスからなのか、慢性的な肩と腰の痛みが最近、本当にひどい。
体も心も限界…。
「はぁ・・・あちこち痛い。マッサージとかエステとかに行って、もっと自分を労わりたい。でも、平日は仕事で休日は子どもが居るから、そんな時間もないし。」休もうにも休めない現実に憂鬱な気分になった。
そんな時、ふと会社の福利厚生制度が脳裏をよぎった。
「出張整体ー。」
プロの整体師による施術を会社で受けることができる。
デスクワークで疲れた体を癒し整えるための社員の為の制度。
ほんの一瞬でも良いから、ホッと一息つける安息の時間がほしい…。
ちょっとだけ後ろめたさを感じながらも、担当の方に申請依頼をだした。
翌日、オフィスの一角に設けられた施術スペースで、プロの整体師に身を委ねた。
「ふう…」
じんわりと解きほぐされる体の強張り。
久しぶりに、リラックスできた時間だった。
「肩、ずいぶん凝っていらっしゃいますね。呼吸も浅いです」
優しい声が、疲れた心に染み渡る。
「心と体は表裏一体ですからね。体も解きほぐさないと。
頑張りすぎずにいつでもご利用くださいね。」
確かに、気持ちからくる慢性的なストレス が、私の体をも蝕んでいたのかもしれない。
施術後、体は軽くなり、ほんの少しだけ前向きな気持ちが芽生えた。
体が軽くなったおかげか、業務もいつもより捗っている気がする。
その日は、普段よりも1件多くトスを上げることができ、終礼の時には上司にも褒めてもらえ、思わず口元がほころんだ。
「大人になっても褒めてもらうって嬉しいもんだな。今日の晩御飯はちょっと豪華にしちゃおうかな・・・。」
足取り軽く、子どもたちが待つ家に帰った。
家に戻ると、美咲は自室のドアを閉ざしたまま。
陸はヘッドフォンをして、オンラインゲームの世界に没頭している。
海斗は一人、積み木を黙々と重ねていた。
いつもの日常の光景。
けれど、リフレッシュできた心と体ー。
今日の私は、このありふれた日常を少しだけ愛おしく感じることができた。
–
子どもたちの笑顔と謎のメッセージ
夕食の支度をしながら、冷蔵庫に残っていたビールをグラスに注いだ。
「お母さん、今日のご飯は何?」
陸が顔を覗かせる。
「今日は、ハンバーグよ」
「やったー!」
海斗が、嬉しそうに小さな手を叩いた。
美咲はまだ降りてこないけれど、きっとハンバーグは好きだろう。
食卓を囲み、子どもたちの笑顔を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
一人でも、私はこの子たちの母親なのだ。
子どもたちが寝静まった後、私は一人、リビングのソファに座り、静かにグラスを傾けた。
窓の外では、雨がしとしとと降り続いている。
(梅雨があける頃には、私ももう少し成長しているだろうか・・・)
そんなことを考えながら
「誰だろう…」
心の中で繰り返しながら、私はそのメッセージを開いた。
すると、画面に浮かんだのはただ一行。
『あの、もしかして…』
その後、何も続かない。
まるで、私が読んでいるのを見越して、わざと途中で止めたような不自然さ。
しばらく指が画面の上で動かず、何かを感じ取ろうとしている自分がいる。
返信すべきか、放っておくべきか――。
返信を躊躇っていると、スマートフォンが震え、再び新しい通知が届いた。
『あなた、私のこと覚えてる?』
その文字を見た瞬間、私は息を呑んだ。
(続く)