
■小さな芽
──不安と期待。
入り混じる感情を胸に抱えながら、チャットツールの画面を見つめていた。
「わかりました!任せてもらえて嬉しいです!」
Yからの返信は、驚くほどすぐに届いた。
まっすぐな言葉、飾り気のない素直な文面。
その一行を読み返すうちに、心の奥で何かがふっとほどけた。
(大丈夫だろうか……いや、きっと、大丈夫。)
自分に言い聞かせるように深呼吸をひとつ。
冷めかけたコーヒーに手を伸ばし、口をつける。
ほろ苦さが、さっきまでとは違う意味を持つ気がした。
小さな一歩。
けれど確かに、新しい風が吹き込んだ瞬間。
–
■揺れる影
──3週間後。
Yに任せた案件が、少しずつ形になってきていた。
「Aさん、〇〇社の見込み、今月で獲得できると思います!」
「Aさんのアドバイスのおかげで、先方の反応良かったです!」
そんな報告が届くたび、私の心はほんの少しずつ、軽くなっていった。
でも──
その一方で、揺らぐ自分もいた。
(本当にこれでいいのかな……?)
業務の合間、Google Meetの常時接続ルームに目をやる。
モニター越しに見えるメンバーたち。
笑顔で話すYの姿。
そこに“自分の居場所”がぼんやりとかすむ気がして、ふいに不安がよぎる。
(私は、必要なんだろうか……)
昇格したはずなのに。
信頼を得たはずなのに。
胸の奥に広がる、名もなき空白。
–
■雨の音
その夜。
窓を打つ雨の音が、静寂の部屋を満たしていた。
リビングのソファで膝を抱えながら、無言で天井を見つめる。
(私、弱いな……。)
その時、不意に鳴ったチャット通知の音。
控えめな“ピコン”が、静寂をひとすじ破った。
会社のグループチャットの通知だった。
──【お知らせ】明日11:30〜 Aさんの占いカウンセリング予定です。
ドクン、と心臓が音を立てた。
(こんなに早く、また……?)
けれど不思議と、嫌な気はしなかった。
むしろ、この揺れる心を抱えている今だからこそ、何かを求めていたのかもしれない。
窓の外。
雨が少しずつ弱まっていく。その向こうに、うっすらと見える街の明かり。
眠れぬ夜。けれど、ほんの少しだけ前を向けた気がした。
–
■ふたたびの声
翌週。
10時、部内での朝礼を終えて、各メンバーの目標数値の進捗状況を確認する。
(よし、作業も一段落ついた。)
11時半、占いカウンセリングの時間を待つ。
指先が、無意識に震えている。画面がつながると、あの変わらぬ穏やかな声が響いた。
「Aさん、お久しぶりです。」
小さな笑顔に、思わず胸が熱くなる。
「今回は、どんな気持ちでここに来ましたか?」
問いかけられた瞬間、抑えていたものがあふれた。
「……怖いんです。」
震える声。
涙がにじむ視界。
「Yさんがすごく頑張ってくれていて。私は嬉しい。でも、どこか不安で……。
自分の役割が、少しずつ薄れていく気がして……。」
こらえきれず、涙がひとすじこぼれた。
沈黙の向こうで、カウンセラーはゆっくりと頷く。
「Aさん。あなたの“木”は、今とても大きな枝を伸ばしている。
でも、その枝に実がなるには、“風”も必要なんです。」
「風……?」
「そう、“風”は、枝を揺らし、光を届ける。
時に痛みを伴うけれど、それがないと新しい芽は育ちません。」
言葉が、胸の奥にしみていく。
「Aさんが今感じているのは、その“風”です。
あなたの存在が揺らいでいるのではなく、枝が広がり、新しい芽が顔を出している証拠。
怖がらなくていい。あなたは、ちゃんと根を張っていますから。」
涙をぬぐいながら、小さく頷く。
(私、揺れていいんだ……。)
心の中で、またひとつ何かが解けた気がした。
–
■芽吹きの朝
翌朝。
窓の外は、久しぶりの快晴。差し込む朝日が、部屋いっぱいに広がっている。
息子を見送り、家事を終え、いつもの席に座る。
PCを立ち上げると、Yからのチャットが飛び込んできた。
「Aさん、昨日の案件、獲得できました!」
思わず笑顔になる。胸がじんわりとあたたかくなる。
(大丈夫。私は私で、ここにいる。)
深呼吸し、チャットツールを開く。
「Yさん、おめでとう!本当に頑張ってくれてるね。ありがとう。」
そして、そのままもうひとつ、メッセージを打ち込む。
──「今度、チーム全員で集まって、作戦会議しよう。」
空に向かって、そっと目を閉じる。
まぶたの裏に広がる、木々の芽吹く春の景色。
ゆっくり、着実に。変わり始めた毎日。
心の奥で、小さな光が確かに灯っていた。
(つづく)