
目覚めても、まだ夢の続きにいるようで
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朝。
目を開けても、現実の輪郭はまだぼやけたままだった。
窓から差し込む、やわらかな光。
静まり返った部屋の空気を、ゆっくりと染めていく。
いつもなら、もう走り出している時間だった。
シューズの音。呼吸のリズム。ウォームアップで整えていく身体。
けれど、今はそのどれもない。
—
引退と共に訪れた、静かな空白
脚を痛めて競技から離れてから、 気づけば季節がひとつ過ぎていた。
28歳、陸上だけを信じて生きてきた。
大学を出て実業団に入り、走ることが仕事になった日々。
午前だけの勤務、午後は練習に全てを注いでいた。
社会人という肩書を持ちながら、私は社会を何ひとつ知らなかった…。
勝てば歓声、負ければ無言。
結果だけがすべてだった世界。
走り続けた先に、何かがあると信じていた。
だけど、ある日突然、神様は無情にも私から未来を奪い去った。
未来を奪われた私に残ったのは、とても静かな空白の日々だった—。
社会の中で、ただ立ち尽くしていた
配置換え。
今度はオフィスワーク。けれど、仕事の進め方すら分からない。
雑談にも入れず、マニュアルも読めない。
何より、自分よりずっと若い社員たちの方が、堂々としていた。
画面の中で、キビキビと動く手。
電話を取る声。社内チャットのテンポ。
そのすべてが遠かった。
-私は、いったい何をしてきたんだろう。
何度も繰り返した問い。
そのたびに、心の奥で何かが冷たくなる。
—
「未経験歓迎」の言葉に救われて
そんなある日。
いつものように求人サイトを眺めていたとき、
ふと目に留まった言葉。
「アスリートのセカンドキャリア支援」
「未経験歓迎」
「在宅勤務」
見知らぬ社名——Sports Agent。
けれど、なぜか目が離せなかった。
優しく見えた。
その文字たちが。
気づけば、エントリーボタンを押していた。
—
パソコン越しに届いた、あたたかな声
面談の日。
画面越しに映る自分は、少し引きつった笑顔だった。
けれど、向こうの声はやさしかった。
「ここには、元アスリートの先輩もたくさんいますよ」
そのひと言が、
張りついていた不安を、ふっとほどいた。
少しだけ、呼吸が深くなった。
—
はじまりの朝、画面の向こうにいる仲間たち
そして今日。
はじまりの朝。
パソコンを立ち上げ、Meetにログインする。
画面に現れる、各地から集まったメンバーの顔。
「おはようございます!」
軽やかなあいさつ。
慌てて返した「お、おはようございます」は、少し上ずっていた。
業務連絡、ツールの確認、用語の説明。
流れてくる言葉たちが、まだ身体に馴染まない。
—
初めての営業電話、そして沈黙
テレマーケティング。
今日からの私の仕事。
PCに表示された番号をクリックして、
ヘッドセットの向こうに声を届ける。
スクリプト通りに話すだけ。
なのに、緊張で声が震えた。
言葉が詰まる。
沈黙が落ちる。
そして -通話が切れる。
—
誰にも聞かれていないのに、頬が熱くなる
Meetはつながっている。
けれど、通話中の声はミュートにしてある。
誰にも聞かれていない。
それなのに、恥ずかしさで頬が熱くなった。
思わず目を伏せたそのとき。
チャット欄に、ひとこと。
「初日、がんばってますね」
画面の文字が、
心のどこかに、やさしく灯った。
—
はじめて、ちゃんと見てもらえた気がした
ああ、
ここでは、誰かが見てくれているんだ。
うまく言えなくても、
声が届かなくても、
努力はちゃんと、誰かに届いている。
その安心が、胸にじんわりとしみていく。
—
タイピングの練習バーに重なる足音
業務終了後。
パソコンを閉じ、椅子の背にもたれる。
さっきの言葉が、まだ耳の奥に残っていた。
「がんばってるね」って。
-最後に言われたのは、いつだっただろう。
静かに、ブラウザを開く。
検索欄に打ち込んだのは、「タイピング 練習」。
不慣れな指で、キーを叩く。
画面のバーが、ゆっくりと右に進む。
その動きを眺めながら、つぶやいた。
「……あ、走ってる」
—
今日、確かに一歩、踏み出した
もうスパイクは履かない。
でも、確かに私は、また走りはじめている。
遅くたって、いい。
転んだって、いい。
また立ち上がって、前を向いて。
そして、走ればいい。
そう思えた。
静かで、あたたかな一日だった。