
第二話「優衣の影」
Slackの未読バッジを消しながら、島袋朋香はふと、カーソルの動きを止めた。
モニターの右下、通話ログモニタリングツールに見覚えのある番号が再び現れていた。
──03-6260-XXXX
昨日の午後3時17分、営業担当・新垣による発信。
発信ログは残っているのに、録音ファイルはゼロ。
通話時間も表示されていない。あるのは、通話があったという記録だけ。
(また、同じ番号……)
朋香は小さく息を呑み、Slackの履歴を遡る。
この番号が最初に確認されたのは5日前。以降、スタッフを変えて3件、すべて録音なし、音声データも生成されていない。まるで、**通話先が“無音の空間”**にでも繋がっているかのようだった。
その日の夕方。
教育部の宮城悠真が、Google Meet越しにいつもより硬い表情を浮かべていた。
「比嘉さんの話、もう少し追ってみた」
朋香は姿勢を正す。
比嘉優衣は、半年前に突然退職したリスト管理部の元スタッフで、今回の異常ログの多くが、彼女が関わっていたプロジェクトに関連しているはずだ。
「Googleドライブのアクセスログ、残ってた。先週の火曜、深夜1時3分。“比嘉優衣”の名前でアクセス記録があった」
「でも、比嘉さんのアカウントは削除済みですよね?」
「本来なら、絶対にアクセスできない。削除ユーザーは即時無効化される。なのに、フォルダ名もそのまま。**“YUI_HIGA_private”**って名前で、生きてる」
朋香の指先が、無意識に机の縁をなぞっていた。
室内は静かで、隣の家の洗濯機の回る音が遠くにかすかに聞こえる。
なのに、自分の周囲だけ、音が吸い込まれているような静けさを感じた。
「もっと奇妙なのは、昨日の通話ログ。新垣の録音ファイルの保存先が、その“YUI_HIGA_private”になってたんだ」
「……存在しないフォルダに保存?」
「だから再生できなかった。厳密には、音声データは“そこにある”けど、私たちにはアクセスできない状態になってる」
朋香は、呼吸を整えるようにマグカップに手を伸ばした。ぬるくなった紅茶の香りが、現実感を引き戻す。
「それってつまり、削除されたはずの比嘉さんの領域に、今もデータが送られてるってことですよね?」
宮城はうなずく。
「しかも、音声AIのログ解析システムが、昨日の通話についてこんなタグを出してきた」
彼が画面共有で示したのは、通常出力される自動タグの一覧だった。
【会話構造:単独音声】
【通話方向:一方向通信】
【感情解析:微弱な呼吸音/不明な反応パターン】
「誰かが…“そこに”いたってことですか…?」
朋香の声が自然と小さくなる。
宮城は、静かに頷いた。
その夜。
朋香は、いつもより数分早く業務を切り上げた。
作業部屋の照明を少し落とし、窓を閉め、周囲の生活音が遠ざかるのを確かめてから、あの番号を手動でダイヤルする。
03-6260-XXXX
通話ボタンを押すと、画面が一瞬だけ明るくなり、呼び出し音は鳴らなかった。
……何も聞こえない。
と、思った瞬間。
ヘッドセットから“ザー……”という弱いホワイトノイズが流れ始めた。
耳を澄ますと、その奥に、まるでガラス越しに誰かが息をしているような音**がある。
「……もしもし?」
言った瞬間、通話が自動で切れた。
画面に、通話終了の通知が表示される。
通話を終了しました(比嘉 優衣)
その名を見た途端、朋香の全身に鳥肌が立った。
ただの名前。ログに残された文字列。
けれど、今はその無機質な数字に命があるような気がした。
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