
第二話:「ログに残らない架電」
朝の陽ざしが、レースカーテン越しに差し込んでいた。
部屋の中に淡く柔らかな光が滲み、壁に吊るした家族写真のフチがうっすらと金色に染まる。
洗いかけのマグカップを脇に置いたまま、奈緒はパソコンの前に座っていた。
Slackには新しい通知がいくつか溜まっている。
定例資料のアップ報告や、チャンネル分けの案内。
その中にひとつだけ、息がほんの一瞬だけ止まるような、妙な違和感を伴うメッセージが紛れていた。
送信者は——NAKACHI_H。
(……そんな名前、もう存在しないはずなのに)
奈緒はしばらく画面を見つめた。
–
ゆっくりとカーソルを合わせ、クリックする。
開いたスレッドには、短い一文が表示されていた。
「この仕事が、あなたの居場所になりますように。」
メッセージのタイムスタンプは、2023年11月15日 14:58。
あの日、面接の始まる直前の時刻だった。
(なぜ……今まで気づかなかった?)
だが、思い返しても、この通知が届いた記憶はない。
そもそも、「NAKACHI_H」というアカウントが存在していたことすら——Slack上では“なかった”ことになっている。
試しにプロフィールを開こうとしても、「このユーザーは削除されました」の灰色の文字が表示されるばかり。
奈緒は椅子にもたれかけて、目を閉じた。
確かに“いた”のだ。
黒のタートルネック。まとめた髪。静かで穏やかな口調。
「声が、ちゃんと届く」と言ってくれた、あの人。
でも、あの日以降——どこにも、その姿は見つからなかった。
——もう一度、確かめよう。
そう思って、奈緒は自分のGoogleアカウントのログイン履歴を確認した。
Meetの参加履歴、メール通知、カレンダーのイベント……。
2023年11月15日。面接の記録が、まるごと存在していなかった。
(あり得ない。私はたしかに、Meetで話した。ログが残らないはずない)
慌ててSlackの検索窓に「仲地晴海」と入力する。
ヒットしたのは、ひとつのアーカイブチャンネル。
【#旧制度_オリエンログ】
開いてみると、投稿は数えるほどしかなかった。
けれど、その中に、彼女の言葉だと直感できるものがあった。
「リストは“耳”でつくる。見えない感覚を信じること」
「会話の“間”に、その人の誠実さが宿る」
「記録に残らないことの中に、大事な選択がある」
奈緒は息を呑んだ。
(“記録に残らない”……?)
そのとき、不意にSlackの画面がちらついた。
【NAKACHI_H がメッセージを送信しました】の通知。
慌ててDM画面を開く。
だが、そこにメッセージはなかった。
代わりに表示されたのは——
「このメッセージは削除されました」
画面の奥が、じわりと歪んで見えた。
背筋に、音のない冷たい風が吹き抜けていくような感覚が残る。
静かな部屋。
窓の外では、いつものように宅配トラックがエンジン音を響かせて通り過ぎる。
けれどその音が、妙に遠く聞こえた。
奈緒は、パソコンの画面を閉じた。
手のひらにじんわりと汗がにじんでいた。
あの人は、本当に存在していたのか。
あるいは——誰にも知られないまま、“何か”を伝えに来た存在だったのか。
光に照らされたカーテンが、音もなく揺れていた。
まるでその向こうに、誰かが立っていたかのように。